下の文章は上の動画を文章に起こしたものです。

西脇酒造は江戸末期の上郡町に初代西脇嘉三郎氏が創業。その後4代目となる西脇寿一朗氏により 大正11年に東の蔵が建てられ、創業以来本町にあった醸造場をこの「東の蔵」へ移した。以降、大正、昭和の激動の時代を西脇酒造は乗り越えてきました。

昭和の後半になり、西播磨近隣にあった4つの蔵を含め5社分の醸造を引き受けるまでに至りました。当時の酒が西播磨の銘酒「播磨灘」です。

時代の変遷とともに日本各地の酒蔵も衰退の途をたどってきましたが、上郡町が誇る「ひがし蔵」は絵画や写真、音楽などアートと音楽を楽しむ場所として6代目西脇優興(まさおき)氏により平成5年に修復を始め、志半ばで亡くなった夫の後を継いで西脇洋子さんにより平成7年に完成を迎えるに至りました。

これからお送りする映像は、西脇酒造が手掛けた昭和50年冬の酒造りの様子をまとめたものです。

近年では丈夫な白いビニール靴が利用されていますが、当時の西脇酒造では藁沓(わらぐつ)を手作業で人数分を編み上げていきました。古い伝統を伺い知る事が出来る貴重な画像です。

酒蔵にある精米機は米屋や一般家庭にある精米機とは違い、純度を高くするためにより深く削るように出来ています。

精米された酒米を洗う作業です。主には新人や手伝いの方が行った作業ですが、濁った水が米に付着しないようにすばやく洗い上げる工夫が必要で、少し手を抜くと杜氏(とうじ)や頭(かしら)に怒られたようです。

洗米を行ったコメはこしき桶に入れられ一気に蒸し上げられます。石炭を使った燃焼ボイラーで蒸窯に熱を加え蒸し上げられますが、その際にこしき桶から出た蒸気は蒸気トンネルを通じて煙突に抜けて行きます。より多くの米を蒸し上げるには大きな火力が必要なため、この煙突の大きさから蔵の規模が分かるともいわれています。幸いにもこの煙突はひがし蔵駐車場に一部ではありますが現存し、当時の酒造りの面影を伝えています。

酒米を蒸し上げる工程で、蒸しの状態を確認するために実際に米を取り出して「ひねり餅」づくりを行います。少し硬いひねり餅ですが、当時は作業者や家族のおやつ代わりにもなりました。

蒸し上げられた酒米の熱を冷ますためにこしき桶から放冷枡へ移されます。蒸気が蔵一杯にあがる様子から蔵と米の温度差を伺い知る事が出来ます。

 

放冷枡で熱を冷ました酒米を当時2階にあった保存室に目の細やかな網布に包んで人手で持って上がります。
現在その網布はひがし蔵の喫茶コーナーにある暖簾として残っています。

 

冷まされた酒米は約48時間、温度・湿度が管理された製麹室(せいぎくむろ)に入れられ麹米(こうじまい)となります。この麹米の質によって品質が左右されると言われています。

麹米を酵母菌を加える事によりアルコールの発酵を促す作業です。酒母に含まれる乳酸菌を利用し雑菌を排除して酵母が働きやすい状態を作り出し、アルコール発酵を促進するという昔ながらの作業です。こうした作業を行うために酒蔵にあるタンクに麹米は仕込まれていきます。

日本の酒作の特徴である三段階に分けて仕込む作業を段仕込みと言い、1日目に初添えを仕込み2日目は休み、3日目に中添え仕込みを行い、4日目は休み、そして5日目に最後となる留添えを行い仕込みの全てが完了します。

仕込みが済んだタンクにいよいよもろみを加えます。このもろみがやがて原酒となります。

 

10リットル入る袋にもろみ発酵した原酒を入れて舟へ運び、圧縮する事により原酒が搾り出されます。この舟は現在も「ひがし蔵」の中に保存されていますのでご覧下さい。

こうして原酒が搾り出された後に残る「酒粕」は舟から取り出された後、分離され商品となって酒蔵での直売や問屋などへ出荷されていきました。

搾られた原酒はそのままだとアルコール発酵を続けてしまうため、蛇管と言われる管に通す事で原酒の殺菌を行いアルコール発酵をここで止めます。

 

出来上がった原酒を濾過器に通し、濾過された原酒はいよいよ瓶詰されます。
西脇酒造は但馬より杜氏を招き、近隣地域の蔵と共に「播磨灘」を製造し西播磨の酒として出荷を行ってきました。
現在はアートと音楽を提供するギャラリーとして生まれ変わり、古くから伝わる酒造りの伝統を保存、紹介しつつ上郡町の産業遺産、文化の一つとして残されていくでしょう。